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前生(ぜんしょう)の縁が深かったか、またもないような美しい皇子までがこの人からお生まれになった。寵姫を母とした御子(みこ)を早く御覧になりたい思召(おぼしめ)しから、正規の日数が立つとすぐに更衣母子(おやこ)を宮中へお招きになった。小皇子(しょうおうじ)はいかなる美なるものよりも美しいお顔をしておいでになった。帝の第一皇子は右大臣の娘の女御からお生まれになって、重い外戚(がいせき)が背景になっていて、疑いもない未来の皇太子として世の人は尊敬をささげているが、第二の皇子の美貌(びぼう)にならぶことがおできにならぬため、それは皇家(おうけ)の長子として大事にあそばされ、これは御自身の愛子(あいし)として非常に大事がっておいでになった。更衣は初めから普通の朝廷の女官として奉仕するほどの軽い身分ではなかった。ただお愛しになるあまりに、その人自身は最高の貴女(きじょ)と言ってよいほどのりっぱな女ではあったが、始終おそばへお置きになろうとして、殿上で音楽その他のお催し事をあそばす際には、だれよりもまず先にこの人を常の御殿へお呼びになり、またある時はお引き留めになって更衣が夜の御殿から朝の退出ができずそのまま昼も侍しているようなことになったりして、やや軽いふうにも見られたのが、皇子のお生まれになって以後目に立って重々しくお扱いになったから、東宮にもどうかすればこの皇子をお立てになるかもしれぬと、第一の皇子の御生母の女御は疑いを持っていた。この人は帝の最もお若い時に入内(じゅだい)した最初の女御であった。この女御がする批難と恨み言だけは無関心にしておいでになれなかった。この女御へ済まないという気も十分に持っておいでになった。帝の深い愛を信じながらも、悪く言う者と、何かの欠点を捜し出そうとする者ばかりの宮中に、病身な、そして無力な家を背景としている心細い更衣は、愛されれば愛されるほど苦しみがふえるふうであった。
住んでいる御殿(ごてん)は御所の中の東北の隅(すみ)のような桐壺(きりつぼ)であった。幾つかの女御や更衣たちの御殿の廊(ろう)を通い路(みち)にして帝がしばしばそこへおいでになり、宿直(とのい)をする更衣が上がり下がりして行く桐壺であったから、始終ながめていねばならぬ御殿の住人たちの恨みが量(かさ)んでいくのも道理と言わねばならない。召されることがあまり続くころは、打ち橋とか通い廊下のある戸口とかに意地の悪い仕掛けがされて、送り迎えをする女房たちの着物の裾(すそ)が一度でいたんでしまうようなことがあったりする。またある時はどうしてもそこを通らねばならぬ廊下の戸に錠がさされてあったり、そこが通れねばこちらを行くはずの御殿の人どうしが言い合わせて、桐壺の更衣の通り路(みち)をなくして辱(はずか)しめるようなことなどもしばしばあった。数え切れぬほどの苦しみを受けて、更衣が心をめいらせているのを御覧になると帝はいっそう憐(あわ)れを多くお加えになって、清涼殿(せいりょうでん)に続いた後涼殿(こうりょうでん)に住んでいた更衣をほかへお移しになって桐壺の更衣へ休息室としてお与えになった。移された人の恨みはどの後宮(こうきゅう)よりもまた深くなった。
第二の皇子が三歳におなりになった時に袴着(はかまぎ)の式が行なわれた。前にあった第一の皇子のその式に劣らぬような派手(はで)な準備の費用が宮廷から支出された。それにつけても世間はいろいろに批評をしたが、成長されるこの皇子の美貌(びぼう)と聡明(そうめい)さとが類のないものであったから、だれも皇子を悪く思うことはできなかった。有識者はこの天才的な美しい小皇子を見て、こんな人も人間世界に生まれてくるものかと皆驚いていた。
朗読:日髙徹郎 Ted Hidaka