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2.12 それから数日後
紀伊守は五、六日してからその子供をつれて来た。整った顔というのではないが、艶(えん)な風采(ふうさい)を備えていて、貴族の子らしいところがあった。そばへ呼んで源氏は打ち解けて話してやった。子供心に美しい源氏の君の恩顧を受けうる人になれたことを喜んでいた。姉のことも詳しく源氏は聞いた。返辞のできることだけは返辞をして、つつしみ深くしている子供に、源氏は秘密を打ちあけにくかった。けれども上手(じょうず)に嘘(うそ)まじりに話して聞かせると、そんなことがあったのかと、子供心におぼろげにわかればわかるほど意外であったが、子供は深い穿鑿(せんさく)をしようともしない。
源氏の手紙を弟が持って来た。女はあきれて涙さえもこぼれてきた。弟がどんな想像をするだろうと苦しんだが、さすがに手紙は読むつもりらしくて、きまりの悪いのを隠すように顔の上でひろげた。さっきからからだは横にしていたのである。手紙は長かった。終わりに、
見し夢を逢(あ)ふ夜ありやと歎(なげ)く間に目さへあはでぞ頃(ころ)も経にける
安眠のできる夜がないのですから、夢が見られないわけです。
とあった。目もくらむほどの美しい字で書かれてある。涙で目が曇って、しまいには何も読めなくなって、苦しい思いの新しく加えられた運命を思い続けた。
翌日源氏の所から小君(こぎみ)が召された。出かける時に小君は姉に返事をくれと言った。
「ああしたお手紙をいただくはずの人がありませんと申し上げればいい」
と姉が言った。
「まちがわないように言っていらっしったのにそんなお返辞はできない」
そう言うのから推(お)せば秘密はすっかり弟に打ち明けられたものらしい、こう思うと女は源氏が恨めしくてならない。
「そんなことを言うものじゃない。大人の言うようなことを子供が言ってはいけない。お断わりができなければお邸(やしき)へ行かなければいい」
無理なことを言われて、弟は、
「呼びにおよこしになったのですもの、伺わないでは」
と言って、そのまま行った。好色な紀伊守はこの継母が父の妻であることを惜しがって、取り入りたい心から小君にも優しくしてつれて歩きもするのだった。小君が来たというので源氏は居間へ呼んだ。
「昨日(きのう)も一日おまえを待っていたのに出て来なかったね。私だけがおまえを愛していても、おまえは私に冷淡なんだね」
恨みを言われて、小君は顔を赤くしていた。
「返事はどこ」
小君はありのままに告げるほかに術(すべ)はなかった。
「おまえは姉さんに無力なんだね、返事をくれないなんて」
そう言ったあとで、また源氏から新しい手紙が小君に渡された。
「おまえは知らないだろうね、伊予の老人よりも私はさきに姉さんの恋人だったのだ。頸(くび)の細い貧弱な男だからといって、姉さんはあの不恰好(ぶかっこう)な老人を良人(おっと)に持って、今だって知らないなどと言って私を軽蔑(けいべつ)しているのだ。けれどもおまえは私の子になっておれ。姉さんがたよりにしている人はさきが短いよ」
と源氏がでたらめを言うと、小君はそんなこともあったのか、済まないことをする姉さんだと思う様子をかわいく源氏は思った。小君は始終源氏のそばに置かれて、御所へもいっしょに連れられて行ったりした。源氏は自家の衣裳係(いしょうがかり)に命じて、小君の衣服を新調させたりして、言葉どおり親代わりらしく世話をしていた。女は始終源氏から手紙をもらった。けれども弟は子供であって、不用意に自分の書いた手紙を落とすようなことをしたら、もとから不運な自分がまた正しくもない恋の名を取って泣かねばならないことになるのはあまりに自分がみじめであるという考えが根底になっていて、恋を得るということも、こちらにその人の対象になれる自信のある場合にだけあることで、自分などは光源氏の相手になれる者ではないと思う心から返事をしないのであった。ほのかに見た美しい源氏を思い出さないわけではなかったのである。真実の感情を源氏に知らせてもさて何にもなるものでないと、苦しい反省をみずから強いている女であった。源氏はしばらくの間もその人が忘られなかった。気の毒にも思い恋しくも思った。女が自分とした過失に苦しんでいる様子が目から消えない。本能のおもむくままに忍んであいに行くことも、人目の多い家であるからそのことが知れては困ることになる、自分のためにも、女のためにもと思っては煩悶(はんもん)をしていた。
例のようにまたずっと御所にいた頃、源氏は方角の障(さわ)りになる日を選んで、御所から来る途中でにわかに気がついたふうをして紀伊守の家へ来た。紀伊守は驚きながら、
「前栽(せんざい)の水の名誉でございます」
こんな挨拶(あいさつ)をしていた。小君(こぎみ)の所へは昼のうちからこんな手はずにすると源氏は言ってやってあって、約束ができていたのである。
始終そばへ置いている小君であったから、源氏はさっそく呼び出した。女のほうへも手紙は行っていた。自身に逢おうとして払われる苦心は女の身にうれしいことではあったが、そうかといって、源氏の言うままになって、自己が何であるかを知らないように恋人として逢う気にはならないのである。夢であったと思うこともできる過失を、また繰り返すことになってはならぬとも思った。妄想(もうそう)で源氏の恋人気どりになって待っていることは自分にできないと女は決めて、小君が源氏の座敷のほうへ出て行くとすぐに、
「あまりお客様の座敷に近いから失礼な気がする。私は少しからだが苦しくて、腰でもたたいてほしいのだから、遠い所のほうが都合がよい」
と言って、渡殿(わたどの)に持っている中将という女房の部屋(へや)へ移って行った。初めから計画的に来た源氏であるから、家従たちを早く寝させて、女へ都合を聞かせに小君をやった。小君に姉の居所がわからなかった。やっと渡殿の部屋を捜しあてて来て、源氏への冷酷な姉の態度を恨んだ。
「こんなことをして、姉さん。どんなに私が無力な子供だと思われるでしょう」
もう泣き出しそうになっている。
「なぜおまえは子供のくせによくない役なんかするの、子供がそんなことを頼まれてするのはとてもいけないことなのだよ」
としかって、
「気分が悪くて、女房たちをそばへ呼んで介抱(かいほう)をしてもらっていますって申せばいいだろう。皆が怪しがりますよ、こんな所へまで来てそんなことを言っていて」
取りつくしまもないように姉は言うのであったが、心の中では、こんなふうに運命が決まらないころ、父が生きていたころの自分の家へ、たまさかでも源氏を迎えることができたら自分は幸福だったであろう。しいて作るこの冷淡さを、源氏はどんなにわが身知らずの女だとお思いになることだろうと思って、自身の意志でしていることであるが胸が痛いようにさすがに思われた。どうしてもこうしても人妻という束縛は解かれないのであるから、どこまでも冷ややかな態度を押し通して変えまいという気に女はなっていた。
源氏はどんなふうに計らってくるだろうと、頼みにする者が少年であることを気がかりに思いながら寝ているところへ、だめであるという報(しら)せを小君が持って来た。女のあさましいほどの冷淡さを知って源氏は言った。
「私はもう自分が恥ずかしくってならなくなった」
気の毒なふうであった。それきりしばらくは何も言わない。そして苦しそうに吐息(といき)をしてからまた女を恨んだ。
帚木(ははきぎ)の心を知らでその原の道にあやなくまどひぬるかな
今夜のこの心持ちはどう言っていいかわからない、と小君に言ってやった。女もさすがに眠れないで悶(もだ)えていたのである。それで、
数ならぬ伏屋(ふせや)におふる身のうさにあるにもあらず消ゆる帚木
という歌を弟に言わせた。小君は源氏に同情して、眠がらずに往(い)ったり来たりしているのを、女は人が怪しまないかと気にしていた。
いつものように酔った従者たちはよく眠っていたが、源氏一人はあさましくて寝入れない。普通の女と変わった意志の強さのますます明確になってくる相手が恨めしくて、もうどうでもよいとちょっとの間は思うがすぐにまた恋しさがかえってくる。
「どうだろう、隠れている場所へ私をつれて行ってくれないか」
「なかなか開(あ)きそうにもなく戸じまりがされていますし、女房もたくさんおります。そんな所へ、もったいないことだと思います」
と小君が言った。源氏が気の毒でたまらないと小君は思っていた。
「じゃあもういい。おまえだけでも私を愛してくれ」
と言って、源氏は小君をそばに寝させた。若い美しい源氏の君の横に寝ていることが子供心に非常にうれしいらしいので、この少年のほうが無情な恋人よりもかわいいと源氏は思った。
朗読:日髙徹郎 Ted Hidaka #紫式部 #源氏物語 #帚木 #与謝野晶子 #光る君へ #朗読