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4.2 数日後、夕顔の宿の報告
幾日かして惟光が出て来た。
「病人がまだひどく衰弱しているものでございますから、どうしてもそのほうの手が離せませんで、失礼いたしました」
こんな挨拶(あいさつ)をしたあとで、少し源氏の君の近くへ膝(ひざ)を進めて惟光朝臣(これみつあそん)は言った。
「お話がございましたあとで、隣のことによく通じております者を呼び寄せまして、聞かせたのでございますが、よくは話さないのでございます。この五月ごろからそっと来て同居している人があるようですが、どなたなのか、家の者にもわからせないようにしていますと申すのです。時々私の家との間の垣根(かきね)から私はのぞいて見るのですが、いかにもあの家には若い女の人たちがいるらしい影が簾(すだれ)から見えます。主人がいなければつけない裳(も)を言いわけほどにでも女たちがつけておりますから、主人である女が一人いるに違いございません。昨日(きのう)夕日がすっかり家の中へさし込んでいました時に、すわって手紙を書いている女の顔が非常にきれいでした。物思いがあるふうでございましたよ。女房の中には泣いている者も確かにおりました」
源氏はほほえんでいたが、もっと詳しく知りたいと思うふうである。自重をなさらなければならない身分は身分でも、この若さと、この美の備わった方が、恋愛に興味をお持ちにならないでは、第三者が見ていても物足らないことである。恋愛をする資格がないように思われているわれわれでさえもずいぶん女のことでは好奇心が動くのであるからと惟光(これみつ)は主人をながめていた。
「そんなことから隣の家の内の秘密がわからないものでもないと思いまして、ちょっとした機会をとらえて隣の女へ手紙をやってみました。するとすぐに書き馴(な)れた達者な字で返事がまいりました、相当によい若い女房もいるらしいのです」
「おまえは、なおどしどし恋の手紙を送ってやるのだね。それがよい。その人の正体が知れないではなんだか安心ができない」
と源氏が言った。家は下(げ)の下(げ)に属するものと品定(しなさだ)めの人たちに言われるはずの所でも、そんな所から意外な趣のある女を見つけ出すことがあればうれしいに違いないと源氏は思うのである。
4.3 空蝉の夫、伊予国から上京す
源氏は空蝉(うつせみ)の極端な冷淡さをこの世の女の心とは思われないと考えると、あの女が言うままになる女であったなら、気の毒な過失をさせたということだけで、もう過去へ葬ってしまったかもしれないが、強い態度を取り続けられるために、負けたくないと反抗心が起こるのであるとこんなふうに思われて、その人を忘れている時は少ないのである。これまでは空蝉(うつせみ)階級の女が源氏の心を引くようなこともなかったが、あの雨夜の品定めを聞いて以来好奇心はあらゆるものに動いて行った。何の疑いも持たずに一夜の男を思っているもう一人の女を憐(あわれ)まないのではないが、冷静にしている空蝉にそれが知れるのを、恥ずかしく思って、いよいよ望みのないことのわかる日まではと思ってそれきりにしてあるのであったが、そこへ伊予介(いよのすけ)が上京して来た。そして真先(まっさき)に源氏の所へ伺候した。長い旅をして来たせいで、色が黒くなりやつれた伊予の長官は見栄(みえ)も何もなかった。しかし家柄もいいものであったし、顔だちなどに老いてもなお整ったところがあって、どこか上品なところのある地方官とは見えた。任地の話などをしだすので、湯の郡(こおり)の温泉話も聞きたい気はあったが、何ゆえとなしにこの人を見るときまりが悪くなって、源氏の心に浮かんでくることは数々の罪の思い出であった。まじめな生一本(きいっぽん)の男と対(むか)っていて、やましい暗い心を抱くとはけしからぬことである。人妻に恋をして三角関係を作る男の愚かさを左馬頭(さまのかみ)の言ったのは真理であると思うと、源氏は自分に対して空蝉の冷淡なのは恨めしいが、この良人(おっと)のためには尊敬すべき態度であると思うようになった。
伊予介が娘を結婚させて、今度は細君を同伴して行くという噂(うわさ)は、二つとも源氏が無関心で聞いていられないことだった。恋人が遠国へつれられて行くと聞いては、再会を気長に待っていられなくなって、もう一度だけ逢(あ)うことはできぬかと、小君(こぎみ)を味方にして空蝉に接近する策を講じたが、そんな機会を作るということは相手の女も同じ目的を持っている場合だっても困難なのであるのに、空蝉のほうでは源氏と恋をすることの不似合いを、思い過ぎるほどに思っていたのであるから、この上罪を重ねようとはしないのであって、とうてい源氏の思うようにはならないのである。空蝉はそれでも自分が全然源氏から忘れられるのも非常に悲しいことだと思って、おりおりの手紙の返事などに優しい心を見せていた。なんでもなく書く簡単な文字の中に可憐(かれん)な心が混じっていたり、芸術的な文章を書いたりして源氏の心を惹(ひ)くものがあったから、冷淡な恨めしい人であって、しかも忘れられない女になっていた。もう一人の女は他人と結婚をしても思いどおりに動かしうる女だと思っていたから、いろいろな噂を聞いても源氏は何とも思わなかった。
4.4 霧深き朝帰りの物語
秋になった。このごろの源氏はある発展を遂げた初恋のその続きの苦悶(くもん)の中にいて、自然左大臣家へ通うことも途絶えがちになって恨めしがられていた。六条の貴女(きじょ)との関係も、その恋を得る以前ほどの熱をまた持つことのできない悩みがあった。自分の態度によって女の名誉が傷つくことになってはならないと思うが、夢中になるほどその人の恋しかった心と今の心とは、多少懸隔(へだたり)のあるものだった。六条の貴女はあまりにものを思い込む性質だった。源氏よりは八歳(やっつ)上の二十五であったから、不似合いな相手と恋に堕(お)ちて、すぐにまた愛されぬ物思いに沈む運命なのだろうかと、待ち明かしてしまう夜などには煩悶(はんもん)することが多かった。
霧の濃くおりた朝、帰りをそそのかされて、睡(ね)むそうなふうで歎息(たんそく)をしながら源氏が出て行くのを、貴女の女房の中将が格子(こうし)を一間だけ上げて、女主人(おんなあるじ)に見送らせるために几帳(きちょう)を横へ引いてしまった。それで貴女は頭を上げて外をながめていた。いろいろに咲いた植え込みの花に心が引かれるようで、立ち止まりがちに源氏は歩いて行く。非常に美しい。廊のほうへ行くのに中将が供をして行った。この時節にふさわしい淡紫(うすむらさき)の薄物の裳(も)をきれいに結びつけた中将の腰つきが艶(えん)であった。源氏は振り返って曲がり角(かど)の高欄の所へしばらく中将を引き据(す)えた。なお主従の礼をくずさない態度も額髪(ひたいがみ)のかかりぎわのあざやかさもすぐれて優美な中将だった。
「咲く花に移るてふ名はつつめども折らで過ぎうき今朝(けさ)の朝顔
どうすればいい」
こう言って源氏は女の手を取った。物馴(ものな)れたふうで、すぐに、
朝霧の晴れ間も待たぬけしきにて花に心をとめぬとぞ見る
と言う。源氏の焦点をはずして主人の侍女としての挨拶をしたのである。美しい童侍(わらわざむらい)の恰好(かっこう)のよい姿をした子が、指貫(さしぬき)の袴(はかま)を露で濡(ぬ)らしながら、草花の中へはいって行って朝顔の花を持って来たりもするのである、この秋の庭は絵にしたいほどの趣があった。源氏を遠くから知っているほどの人でもその美を敬愛しない者はない、情趣を解しない山の男でも、休み場所には桜の蔭(かげ)を選ぶようなわけで、その身分身分によって愛している娘を源氏の女房にさせたいと思ったり、相当な女であると思う妹を持った兄が、ぜひ源氏の出入りする家の召使にさせたいとか皆思った。まして何かの場合には優しい言葉を源氏からかけられる女房、この中将のような女はおろそかにこの幸福を思っていない。情人になろうなどとは思いも寄らぬことで、女主人の所へ毎日おいでになればどんなにうれしいであろうと思っているのであった。
朗読:日髙徹郎 Ted Hidaka
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