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山本周五郎、最後の長編小説『ながい坂』第四部。
銀杏屋敷では、重臣家の男女たちが淫靡な宴にふけっていた。そこに滝沢兵部は足を踏み入れ、三浦主水正の妻・つるの姿を見る。名門滝沢家の跡取りとして育てられた兵部は、父・滝沢主殿の期待と家名の重圧に押し潰されながら、女遊びと酒に沈んでいく。自分は人間ではなく、父にこねあげられた泥人形なのではないか――。彼の魂は、暗い坂を転がり落ちていく。
一方、井関川から捨て野へ水を引く堰工事は、いよいよ本格化していた。御用商人五人衆は、三浦主水正を将来の脅威と見なし、武高ななえを使って彼を取り込もうと策を練る。工事現場では杭が抜かれ、石積みが崩されるなど、何者かによる妨害が始まっていた。
孤児だった七は、その異変に気づき、主水正に知らせる。だが藩主・昌治は、工事現場を視察したのち、主水正に別の任務を命じる。主水正は仲間たちと別れ、城下の三浦家へ戻ることになる。
そこにあるのは、冷えきった夫婦関係と、しかし思いがけず変わりはじめた屋敷の空気だった。
名門の崩壊、商人たちの策謀、堰工事への妨害、そして主水正の帰還。 第四部は、『ながい坂』の暗部と改革の現場が、いよいよ真正面から衝突しはじめる章です。
📚登場人物一覧
三浦主水正/阿部小三郎
本作の中心人物。第十一章では、井関川から捨て野へ水を引く堰工事の現場で働く。工事妨害の兆候を七から知らされ、慎重に対処しようとする。藩主昌治の命により工事現場を離れ、城下へ戻ることになる。曲町の三浦家へ帰った際、召使たちや芳野の態度に変化を感じ、自分の家に初めて安らぎを覚える。
滝沢兵部友矩
滝沢主殿の子。名門滝沢家の跡取りで、将来の城代家老と期待されている。しかし父の期待と家名の重圧に息苦しさを覚え、自分を「こねあげられた泥人形」と感じている。銀杏屋敷でつると出会い、白壁町や西小路の女のもとへ通い、酒と女遊びに溺れていく。第四部では、主水正と対をなす「名門に生まれた者の孤独」として深く描かれる。
滝沢主殿
城代家老。兵部の父。名家老として藩を支える重臣であり、兵部を四代目の城代家老にしようとしている。兵部の放蕩も知っているが、滝沢家の跡取りとしての責任だけは忘れるなと説く。理と責任の人であり、父としての情より家と藩を優先する人物として描かれる。
岡野吾兵衛
滝沢家の家扶。兵部を案じ、父・主殿のもとへ行くよう促す。滝沢家に仕えることを誇りとし、分に従って生きる道理を兵部に説く。兵部にとっては、滝沢家の秩序そのものを象徴する存在。
山根つる/三浦つる
主水正の妻。第十章では銀杏屋敷の宴席に姿を見せる。滝沢兵部に近づかれ、誘いを受けるが、簡単には崩れない気位の高さを見せる。第十一章では、主水正が二十五歳になって帰ることを避けるように外出しており、彼女の虚勢と不安がにじむ。
山内貞二郎
山内家の長男。銀杏屋敷の宴席にいる。滝沢兵部につるのことを教え、つるを試すよう唆す。放埒な名門子弟の代表として描かれる。
雪江
山内家の娘。銀杏屋敷で滝沢兵部に絡み、遊びに誘う。奔放で退廃した名門の若い女性として、銀杏屋敷の異様な空気を強める。
中泉千冬
尚功館で和学を教える人物。銀杏屋敷の宴席にいる。放埒な遊びに慣れた人物として描かれ、女芸者に下劣な振る舞いを命じる。
中泉こいく
中泉千冬の妻。銀杏屋敷の宴席におり、吉谷弥三郎とともに座敷を出ていく。名門の奥向きの乱れを示す人物。
吉谷弥三郎
銀杏屋敷の宴席にいる男。中泉の妻こいくとともに座敷を出ていく。
柳田帯刀の妻女
銀杏屋敷の宴席にいる女性。重臣家の妻女たちが放埒な場に出入りしていることを示す。
益秋の妻女みゆき
銀杏屋敷の宴席にいる女性。山内貞二郎とともに座敷を出ていく。第十一章では、つるが八重田家へ呼ばれたという口実に関わる奥向きの社交圏を連想させる。
はる
滝沢兵部が西小路に囲っている女。十九歳。かつて鳥越の芸者として座敷に出ていたが、兵部に身請けされて囲われる。礼儀正しく従順だが、兵部には本心が見えず、「人形」のように感じられる。兵部の孤独と歪みを映す存在。
ばあや
はるの家にいる老女。家の世話をしている。兵部の生活の乱れを日常的に見ている人物。
谷宗岳
主水正の師であり、兵部とも関わる人物。第四部では兵部とともに酒を飲み、女や人生について語る。かつて昌平黌の教官でありながら、妻の密通を見た過去を語り、老いと転落の姿をさらす。兵部に白壁町を案内し、彼の堕落を助長するようにも見えるが、同時に人間の孤独を語る鏡のような存在。
小奴
白壁町の女。兵部が出会う娼婦。粗野で下品だが、兵部には「生の人間らしさ」を感じさせる。はるとは対照的に、作法や身分ではなく、むき出しの生命力を持つ存在として描かれる。
梅奴
白壁町の女。谷宗岳の相手をするが、彼をもてあます。
八重田頼母
重臣の一人。第十章後半で、滝沢主殿が兵部の縁談相手として八重田の娘このみを示す。第十一章では、つるが八重田家へ呼ばれたという口実が語られる。
八重田このみ
八重田頼母の娘。滝沢主殿が兵部の縁談相手として考える女性。兵部は銀杏屋敷で彼女にまつわる噂を耳にしており、父の考える家格と現実の人間の乖離を感じる。
牡丹屋勇助
御用商人五人衆の一人。第十一章冒頭で、堰工事が本物であることを見抜く。主水正を「石ぼとけ」のように動かせない人物と評する。
桑島三右衛門
御用商人五人衆の一人で、御金御用を務める老人。主水正の将来性を最も警戒している。主水正を取り込むため、武高ななえを別宅に置き、彼の心の弱点を突こうとする策を提案する。冷静で老獪な策士。
佐渡屋儀平
御用商人五人衆の一人。堰工事と三浦主水正の動向について、桑島らと相談する。
越後屋藤兵衛
御用商人五人衆の一人。主水正の弱みは女ではないかと見る。桑島の策に加わる。
太田巻兵衛
御用商人五人衆の一人。桑島の話を聞き、ななえを使う策について現実的な疑問を投げる。
武高ななえ
主水正の幼なじみ。鳥越で芸者のような境遇にある。五人衆は、彼女を主水正に近づけ、あたたかい家庭を与えるという名目で主水正を取り込もうとする。第四部では、主水正本人の前には出ないが、大きな策謀の中心に置かれる。
七/七郎
かつて大火で親を失い、宗巌寺の子供部屋にいた少年。十六歳となり、堰工事の現場で働いている。工事妨害に気づき、主水正に知らせる。妹ちづを案じる優しさと、危険な役目を引き受ける胆力を持つ。第四部後半の重要人物。
ちい公/ちづ
七の妹。十四歳ほど。町へ奉公に出ているが、つらい境遇にあるらしい。七が主水正に相談する。
飛騨守昌治
若き藩主。堰工事を自ら視察し、専門的な知識を示しながら細部まで確認する。重臣たちの反対を押し切り、藩主として自分の意思で堰工事を進めている。視察後、主水正に工事現場を離れ、領内測量へ回るよう命じる。
佐佐義兵衛
昌治の計画に加わる若侍。算法を担当し、堰工事の実務を支える。第四部では、工事妨害への対処について冷静な方針を示し、主水正が現場を去る際にも仲間たちをまとめる。以前の佐竹義兵衛に相当する人物として扱われる。
小野田猛夫
昌治の計画に加わる若侍。堤防工事を担当する。主水正が工事現場を去ることに惜別の情を見せる。
猪狩又五郎
昌治の計画に加わる若侍。連絡と記録を担当する。主水正が現場を離れることに強く反対し、昌治の独断を嘆く。
栗山主税
昌治の計画に加わる若侍。農耕地造成を担当する。地割りや用水路、排水溝の測量がこれからであるため、主水正が抜けることを惜しむ。
高森宗兵衛
昌治に仕える側近。第十一章で昌治の工事視察に同行する。岩上とともに周囲を警戒する。
岩上六郎兵衛
昌治の側近。第十一章では昌治の工事視察に同行し、警戒役を務める。第三部から続く、昌治の内側の人間。
杉本大作
三浦家の家士。主水正が工事現場を離れて帰る際、城下から迎えに来る。三浦家の留守を守っていた忠実な家臣。
弥助
三浦家の下男。主水正を迎えに来る。庭のくぬぎ林を育てた人物として、三浦家に温かみを添える。
芳野
つるの侍女。以前は主水正に対して冷たい態度を取っていたが、主水正の帰宅時には柔らかく丁寧な態度を見せる。つるの虚勢が崩れたことに合わせて、芳野の態度も変化したと主水正は感じる。
和島学
三浦家の家士。結婚し、子が生まれている。屋敷内の長屋へ移った。
別部辰之助
三浦家の家士。和島とともに屋敷内の長屋へ移る。主水正から縁談の話をされるが、曖昧に答える。
かつ
三浦家の女中。赤毛で器量はよくないが、心根のよい働き者。主水正の無事を見届けるまでは嫁に行かないと語っていたことを芳野に明かされ、涙ぐむ。主水正に、祝いの膳を頼まれる。
よし
三浦家の女中。笑い上戸。主水正は、かつてこの家で笑い声を聞かせてくれたのは彼女だけだったと覚えている。
せき
三浦家の新参の小間使。十五歳。奥に仕える。
重吉
三浦家の新参の庭男。よしの笑い上戸を軽くからかい、場を和ませる。
📚用語
肌襦袢(はだじゅばん)
肌に直接着る下着。
家扶(かふ)
家の事務や家政を取り仕切る家臣。岡野吾兵衛が滝沢家の家扶。
御前(ごぜん)
ここでは滝沢主殿を指す敬称。
城代家老(じょうだいがろう)
城と藩政を預かる重職。滝沢家は代々この役を務める。
廃嫡(はいちゃく)
跡継ぎの地位を取り消すこと。兵部はそのほうがましだと感じる。
陋巷(ろうこう)
狭くむさくるしい路地、貧しい住まい。老いた宗岳の姿の比喩に使われる。
昌平黌(しょうへいこう)
江戸幕府の学問所。宗岳がかつて教官を務めていた。
密通(みっつう)
配偶者以外の者と関係を持つこと。宗岳の過去として語られる。
手討ち(てうち)
武士が不義や無礼をした者を斬ること。
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