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1913年(大正2年)
㊟巻末のエピソードについて
《この敵討のあった時、屋代太郎弘賢は七十八歳で、九郎右衛門、りよに賞美の歌を贈った。「又もあらじ魂祭るてふ折に逢ひて父兄の仇討ちしたぐひは」幸いに太田七左衛門が死んでから十二年程経っているので、もうパロジィを作って屋代を揶揄かう者はなかった。》
・屋代太郎弘賢:江戸後期の幕臣。国学者。
・太田七左衛門:太田南畝のこと。江戸後期の幕臣、漢学者、狂歌作者、戯作者。別名、蜀山人。
太田南畝が屋代をからかったという史実をもとにしている。
森 鷗外
文久2年1月19日〈1862年2月17日〉 -
1922年〈大正11年〉7月9日